自分の感覚を否定すること

自分の感覚に、嫌になることってありませんか。

 

例えば、生意気な後輩が作った新歓の動画を観て、「俺の方がうまく作れるのに」って思っちゃったりすること。

特に僕は、動画を作ることに愛着と自信を持っているので、「素人が何調子乗ってるんだよ」って思ってしまうことがあります。

まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいなことですね。

 

でも、よく考えてみれば、この感じ方は良くないですよね。

理想的、というか本来は、作品をニュートラルに批評できなきゃいけない。作品をまずは受け入れた上で、どこが好きか、どこが劣っているかを評価できなきゃいけない。

批評をするという以前に、その姿勢がなっていない。

 

このように、自分の感覚が嫌になることがあります。

 

しかし、改善することは難しい。

 

自分の感覚を否定することは、自分のアイデンティティを否定することと無関係ではないからです。

人生には様々な分岐路があり、様々な選択肢があります。

どちらを選ぶか、その判断の基準となってきたのは紛れもなく自分の感覚です。

自分の感覚を否定することは、自分が今まで歩んできた人生さえも否定することにつながりかねない。だから否定できないんでしょう。

 

小さい頃、頑固で意固地なオヤジを軽蔑していました。そして、自分はけっして頑固オヤジにはならないと心を決めました。

その決心もあり、頑固オヤジには(まだ)なってないとは思いますが、「頑固ポイント」は貯まっている気がします。気を抜いたら頑固オヤジになりそう。

歳を重ねるにつれて、自分の性格や生き方を否定する難易度はどんどん上がっていくものなのでしょうね。頑固オヤジにも、その人なりの苦労や悲しみがあるのでしょう。

まぁ、だからといって他人に迷惑をかけるのは良くないですが。