文化の「本質」とは何だろう

◇文化と場所

 コミュニケーション発達史という授業をとっている。その中で「文化の発展と場所に関係はあるか?文化の中心地といえる場所はあるか?将来は?」という課題が出た。

 文化と場所は、確かに関係ありそうである。渋谷は大学生のたまり場、六本木や麻布は少し大人な層のたまり場、原宿はポップカルチャーの中心地だ。文化とは何かという定義はともかくとして、原宿・キャットストリート周辺は、長い期間を通じて共通性が見られるので、文化と場所が関係している点といえるだろう。文化の発展には「場所」が欠かせない。

 場所はなにも、リアルな空間に限られない。バーチャル空間も、文化発展の土壌となりうる。いわゆるネット文化である。2007年の「初音ミク」発売を継起にボカロ音楽が発展し、いまや米津玄師を筆頭に、ネット出身の歌手が紅白に出場するまでになっている。このボカロ文化の発展を支えたのはニコニコ動画という「場所」に他ならない。2chや、YouTuberというのも文化といえよう。1995年のWindows95発売あたりを契機にインターネットがより身近に便利になった。そのことで、自分の意見を素人でも発信できるようになった。「集合知」ではないけれども、多くのプレイヤーの参加で、面白いものが作られてきた。

 そして、この傾向は今後も続く。麻雀のプレイヤー数は増えているのに、雀荘の数は減っている。バーチャル空間でも再現可能なものは、リアルからバーチャルへの移行がどんどん進むだろう。原宿の服飾文化も、2010年の「森ガール」ブームを最後に下火になっている感がある。これも、「服装で以て自分をアピールしたい」という欲求を、インスタグラムというバーチャル空間でも満たすことが可能になったことが大いに関係すると思う。

 もちろん、リアルな空間が必要なものはある。例えば宮下公園のスケボー文化は、スケボーと公園の施設が必要不可欠だ。また、渋谷や六本木で盛んなナイトクラブの文化も、「クラブハウス」という3密な空間が、妖しい夜には欠かせない。このような、身体性を伴うものはバーチャルに置き換わりにくいという性質がある。

 

◇文化社会学という学問

 以上の課題は、文化社会学という学問で研究されている内容だそうだ。でも、そんなことを研究して、何になるんだろうというのはある。

 曰く、なぜその文化が発展したのか、という理由を探ることで、その当時の社会的な背景が分かるというのだ。例えば、Twitter文化が発展したのは、薄れゆくリアルな人間関係のなかで、多くの人が心の奥では他者との関りを求めていたため、といえよう。こうした「ブームの背景」を探ることが、文化社会学のひとつの領域だそうだ。

 ずぶの素人ごときで大変恐縮だが、それを知って何になるという感想しかない。確かに新しいブームを作るときの参考にはなるだろうが、学問的な価値はないのではないか。否、こういうことは本稿には関係ないし、事業仕分け的ないやらしさがあるのでやめておく。

 

◇文化の本質

 そもそも「文化」とは何か。「文化」と「部室のノリ」の境界線は何か。

 岐阜大学の先生の資料を見ると、文化の辞書的意味は2つあって、①偉大な文学や哲学、音楽など崇高なもの②ある集団に共通する行動パターン、というものがあるとする。たしかに、日本史で学ぶような「化成文化」「元禄文化」あるいは、ギリシア彫刻やクラシック音楽というのは、前者のさす「文化」。一方で、原宿や渋谷の「文化」は後者を指すだろう。だから、「部室のノリ」もある意味では「文化」なのだ。

 

 課題における「文化」は後者の意味「ある集団に共通する行動パターン」である。そう考えると、文化の本質が見えてこよう。

 原宿の服飾文化。例えば竹の子族やギャル、森ガールは、何も「特定の服装」が大事なのではない。「特定の服装を着た人同士が集まること」なのだ。それが、竹の子族や森ガールの構成員の心を動かし、原宿に集めるのだ。

 文化の本質は「他者とのふれあい」だ。文化は、その媒介でしかない。彼らが原宿に集まるのは、「Aという服装」めあてではない。「Aという服装が好きだと思う人」めあてである。要は、自分と似たような感性の人間に会いたい。そのフィルターとして、特定の服装があるのだ。

 これは一般性を持っている。雀荘にあつまるおじさんたちは、「麻雀」がめあてではなく、「麻雀が好きな人」に会いたいから集まるのだ。夜な夜なクラブに集まる人は、「音楽」めあてではなく、「同じような感性の人間」めあてである。彼らは、「麻雀」や「音楽」を媒介に、「人間」に会いたくて来ているのだ。

 

 人間はさびしい生き物で、他者との関りなしには生きていけない。そして、残念なことに、自分の周りは、必ずしも自分に合う人だけでできているわけではない。そのため、自分に気が合う人を探す必要がある。その手段として「服装」や「麻雀」「音楽」「スケボー」があるのである。

 だからといって、そうした「服装」や「スケボー」に全く意味がないわけではない。「それが好き」ということが「共通性」になるくらいには特異的でなければならない。

 

 そして、文化とは、仲良しグループ集団を指すための看板に過ぎない。