どう生きればいい?

 大学生の私は、悩んでいる。将来の自分の像を描けないでいる。

 「人生設計」や「なりたい自分」という虚飾に満ちた言葉がはびこっている。

 社会人の中で、10人に1人でも、真の意味でそれを貫徹できている人が居るのだろうか。

 

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 悩んでいても始まらないというのは大いにある。止まっているよりは、なんでもいいから動いていた方がいい。人間の成長には、加速度的な部分があると思う。

 もちろん理想は「目標地点に最短距離」である。でも、目標地点は見つからない。そもそも、人間の頭はせいぜい二次元・三次元の世界しかイメージできないわけで、複雑怪奇な人生をたったの三次元で表そうとする試みが虚しい。人生はそもそも、見通せるものではないということを前提とするべきではないのか。だったら、ないものねだりをして時間を浪費するよりも、とにかく動いた方がいい。目標を感じたときに、最速でアプローチできるように、エンジンを温めておく必要がある。

 

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 何かに夢中になっているときは、周りは気にならないし、音も聞こえなくなる。将来への不安も感じない。寝ているときや酔っぱらっているときのような、トランス状態。そんな状況でいつも生きられたら嬉しい。

 生活のふとした瞬間―たとえば五時の鐘を耳にしたとき、自分の無力さに打ちのめされる。周りを見渡せば、絢爛な生活をしている同級生がいる。インスタグラムには、自分と同じような人間の楽しげな姿が載っている。自分は、自分の道を、自分で切り開かなくてはならない。茫洋たる前途に、精神が消耗する。何もやる気がおきなくなる。

 「他人の芝生は青い」ということわざが、日本語だけでなく英語や中国語にもあるように、これは真理なんだと思う。他人の苦悩を推し量れないのが常だ。自分も羨まれているのだろう。満足しているように見える彼も、それでもきっと何かを求めているのだろう。完璧な充足こそないものねだりなのであろう。

 

 ここまで考えてきて、自分がいかに恵まれた人間であるかを痛感する。アフリカの人々は、そもそも生きるための食料すら危うい。草原の動物たちは、いつ自分が捕食される側になるか分からない。余裕をもって、自分の将来を、ある程度の現実性をもった形で夢想できるのは、とても恵まれているのだ。

 そうなるともはや、自分の価値観さえ、その根拠が危うくなる。自分が求める栄光―例えば社長になって大金持ちになること、スターとして一目置かれる存在になること、絶世の美女を自分のものにすること―は、狭小な自分の世界観から導き出されたものだ。そんなものに価値を置くなんて。そもそものスタート地点から見直す必要がある。

 自分の意思が本当に「自由」かなんて、誰が判断できるだろうか。意思というのは往々にして、自分以外のものによって規定されている。自由意思なんて、存在しない。

 

 自分には未だ大事なものが見えていないのだろう。それを知らずに、自分の将来を決められない。残念ながら日本では、新卒採用が大きな重要性を持っている。たかが20歳程度で、残りの80年を選択できない。そう思ってしまうが、国家という大きな社会を支えるためには必要な制度だともいえる。私を含めた日本の学生は、欲張りすぎなのだ。もし海外に生まれていれば、今頃どこかの場所で働かされていただろうに。